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"Christ Risen"
Originally uploaded by Ian Bramham




尖閣諸島問題でちょっと整理(忘備録)



私の誤解かもしれませんが、でも、相手に何をされたかを考えてはならないように聞こえます。相手は何をしてもいい、こちらの心が安定してさえいれば、自分を中心にすえてさえいれば、そうやってちゃんとしていれば、どんなことがあっても平気だというように聞こえます。けれど、相手が何をしても平気というわけにはいきません。相手の行動に傷つくこともあります。人間関係で傷つくと、わたしはどうしていいのかわからなくなるのです。「受け流せ、平気でいろ」というのは立派ですが、言うは易く、行うは難しです。わたしは実際、相手の言葉や行動に傷つくんです。

何時かは傷つかなくなる日が来るだろう。その日、あなたは人間関係の真の意味、人間関係を結ぶ真の理由に気づき、真の人間関係を実現するだろう。それを忘れているから、今のような反応をするのだ。だが、それはそれでよろしい。それも成長の過程であり、発達進化の一部だから。人間関係というのは魂の仕事、偉大な理解、偉大な記憶だ。そのことを思い出さない限り-----そして、自己創造の手段として人間関係をいかに活用するかを思い出さない限り---あなたは今のレベルで努力しなければならない。
いまの理解のレベル、意思のレベル、記憶のレベルで。
そこで、あなたが相手のあり方、いうこと、行動に傷つき、苦痛を感じたときには、どう反応すればいいか。まず、どう感じているかを自分にも相手にも正直に認めなさい。あなた方の多くは正直に認めることを嫌がる。そうすると自分が「悪く見える」のではないかと思うからだ。心の底のどこかで、「そんな感じ方をする」のは馬鹿げていると気づいている。そんな自分がちっぽけなのかもしれないと。「自分はもっと大きな人間」のはずだと。だが、感じるのはどうすることもできない。苦痛を感じないわけにはいかない。
できることは一つしかない。自分の感情を大事にすることだ。自分の感情を尊重するとは、自分自身を尊重することだ。あなた方は自分を愛するように隣人を愛さなければならない。だが、自分の感情を尊重できないで、どうして相手の感情を理解したり、尊重できるだろう?
相手との相互関係の中で、まず問いかけなければならないのは、自分は何者か、何者になりたいか、ということだ。
いくつかの在り方を試してみなければ、自分が何者か思い出さず、何者になりたいかわからないことは多い。だからこそ、自分の正直な感情を大事にすることが大切なのだ。
最初の感情が否定的な感情でも、何度でも必要なだけその感情を味わえば、何時かはそこから踏み出せる。怒りや逆上や嫌悪でも、憤怒(ふんぬ)を味わい、「仕返し」したいと思っている者も、いつかは「そんな自分にはなりたくない」と考えて否定的な感情を捨てることができるだろう。〈マスター〉とは、そのような経験をさんざん積んだあげくに、最終的な選択が前もって分るようになったひとたちだ。
・・・・・・・・
<マスター>とは、つねに同じ回答を出す人たちだ。その回答とは最も気高い選択である。
・・・・・・・・・
もちろんそうなると、「気高い選択」とは何かという疑問が起こるだろう。
この疑問をめぐって、時が始まって以来、人間はさまざまな哲学や神学を発展させてきた。この疑問に本当に取り組むひとは、既に<マスター>への道を歩んでいる。大半の人たちは、まだ他の疑問に取り組んでいる。気高い選択とは何か、ではなく、最も有利な選択とは何か、あるいは、どうすれば失うものを最小限にできるかという疑問だ。被害をおさえるとか、できるだけ得をするという観点から人生を生きていると、人生の真の利益を失ってしまう。機会が失われる。チャンスを見逃す。そんな人生は、不安に駆り立てられて生きる人生だし、そんな人生を送るあなたは、本当のあなたではない。
なぜなら、あなたは不安でなく愛だから。愛は何の保護も必要としないし、失われることも無い。
・・・・・・・・・・
あなた方は何世紀にも渡って、他者に最高の善をもたらす在り方や行為を選択することが、それが愛に支えられた行動だと教えられてきた。
だが、最も気高い選択とは、あなた自身に最高の善をもたらす選択である。
奥深い真実とは全てそうだが、この言葉もたちまち誤解を生みかねない。この言葉のなぞは、自分に与えられる最高の「善」とは何かを考えるときすこしは解けてくるだろう。そして至高の選択が行われるとき、なぞは解け、輪は完成し、あなたにとっての最高の善が他者にとっても最高の善になる。
このことを理解するには、一生かかるかもしれない。あるいはもっと多くの生涯が必要かもしれない。なぜなら、この真実の中心にはさらに大きな真実があるからである。
あなたが自分のためにすることは、他者のためにすることである。他者のためにすることは、自分のためにすることである。
なぜなら、あなたと他者はひとつだから。そして、それが何故かといえば  あなたのほかに何も無いから。
地上に現れた<マスター>はみんな、それを教えてきた。
(まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。わたしの兄弟の最も小さな一人に対してしたのは、このわたしにしたのである)
・・・・・・・・・・・・・
いまは難解な真理はさておいて、この知恵の現実的な応用に戻ることにしよう。
古い理解に基づいて人は  善意で、しかも信仰のあつい人は 人間関係の中で、一番人のためになると思うことをしてきた。悲しいことに、たいていはその結果として虐待され続けてきた。あるいは酷使され続けてきた。うまくいかない人間関係ばかりが続いた。
他者を基準として「正しいことをしよう」と努力したひと  すぐに赦し、同情を示し、ある種の問題や振る舞いを見過ごしてきたひとたちは、結局は神を恨み、怒り、信じなくなった。正義の神なら、たとえ愛の名においてであっても、そんな際限の無い苦しみと喜びの欠如と犠牲を要求し続けるだろうか?
神は要求していない。それが答えである。
神は、あなたが愛する相手に自分自身も含めるように求めているだけである。
神はさらに先へ進む。神は、自分を第一に考えることを提案し、勧めている。
・・・・・・・・・・・・・・・
気高い意味で自分自身を第一に考えるなら、決して真意にかなわない行動をするはずは無い。
・・・・・・・・・・・・・・・・
もちろん、自分にとって何が最善かを見きわめるには、自分が何をしようとしているのか見きわめなければならない。無視している者が多いが、これは重要なステップである。あなたは「何をしようとしている」のか?あなたの人生の目的は何か?その疑問に答えなければ、ある状況で何が「最善」かはいつまでも謎だろう。
実際問題としては-------------ここでは難解な真理はさておいて---------------虐待されている状況で自分にとって最善は何かと考えれば、少なくともその虐待を止めさせなければならない。虐待を止めさせることはあなたにとっても、虐待する側にとっても良いことである。虐待を続けさせておけば、虐待する側までが虐待されることになるからだ。
それは虐待者を癒すのでは無く、傷つけるからだ。虐待は受け入れられるものだと思っていたら、虐待者は何も学べない。ところが、虐待はもう受け入れられないとわかれば、虐待者は何かを発見できるであろう。
愛情ある態度というのは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。
子供を持った母親はそのことをすぐ悟る。おとながおとなにする場合、国が国にする場合には、そう早くは悟れない。
だが、横暴な独裁者を栄えさせてはいけないし、横暴を止めさせなければならない。自分への愛、独裁者への愛がそれを要求する。これが、あなたの「あるのは愛がすべてとしたら、どうして人間は戦争を正当化できるのですか?」という問いへの答えである。
ときには、人間は真の人間らしさをあらわす偉大な宣言として、戦争を嫌悪する人間として、戦争へ行かなければならない。
ときには、本当の自分であるためには、本当の自分を放棄しなければならない。
全てを放棄する覚悟をするまでは、全てを手に入れることはできない、と教えた<マスター>たちがいる。
したがって、平和な人間としての自分を「まっとうする」ために、戦争に加わらない自分という考え方を放棄しなければならないかもしれない。歴史は人間にそんな決意を求めてきた。
同じことは、私的な関係にも言える。人生には、本当の自分でない面を示すことで、本当の自分を証明することを要求されることが何度かある。
何十年か生けていれば、それが分かってくる。ただし、観念的な若者にとっては、究極の矛盾と感じられるかもしれない。もっと成熟して振り返れば、神聖な二分法に思われるだろう。
だからといって、人間関係で傷ついたら「仕返し」せよというのではない。(国家間の関係でも同じだ)。ただ、傷ついても放っておくことが、あなた自身にとっても他者にとっても愛ある行為とは限らない、ということである。
こう考えれば、最高の愛があれば悪に対しても力ずくの対応をしないという、一部の平和主義者の主張は通らなくなるはずだ。


神との対話 1


しかし、ちょっと待っていただけませんか。それじゃ以前おっしゃったことと食い違っているんじゃないかな。誰かに虐待されて、そのままにしておくのは良くないとおっしゃいましたよ。愛情ある行動をとるというのは、自分自身をも愛することだって。だから、どんなことをしてでも、攻撃は止めさせなさいとおっしゃったではありませんか。攻撃に対抗するには、戦争ですらオーケーだと。
ところが今度は、高度に進化した存在は決して、相手の肉体を滅ぼすことは無い、とおっしゃる。どうして、この両方が成り立つんですか?


もういちど、一冊目の対話をよく読んでごらん。
私の答えはすべて、あなたが創り出した文章の中にある。わたしへの質問のなかで、あなたは自分の振る舞いがまだ悟りの域に達していないことを認めている。相手の言葉や行動に傷つくといっている。その上で、あなたは、傷つけられたらどうすれば一番いいか、とたずねたのだ。私の答えは、その質問を前提に考えなければならない。
わたしはまず、いつかは相手の言葉や行動に傷つかなくなる日が来るだろう、と言った。オビワン・ケノービのように、決して傷つかず、誰もあなたを「殺す」ことができないときがくるであろう。そういう悟りの域に今話している社会のメンバー(高度に進化した存在)は達している。彼らは、本当の自分が誰であって、誰で無いかをはっきりと知っている。そういう者を「傷つけたり」「痛めつけたり」するのは非常に難しいよ。
・・・・・・・・・・・・・
もうひとつ、あなたが相手の言葉や行動に今のような反応をするのは、本当の自分を忘れているからだ、と答えただろう? だが、それはそれでよろしい。それも成長の過程であり、発達進化の一部だから。それから、とても大事なことを言ったはずだよ。成長の過程では、「あなたは今のレベルで努力しなければならない。今の理解のレベル、意思のレベル、記憶のレベルで」と。
一冊目の対話に書かれていることはすべて、それを前提として考えなければならない。
本当の自分をまだ思い出していないものの社会なら、攻撃はやめさせなければならない。だがいまあなたは、宇宙の高度に進化した社会について尋ねているのだろう。
べつの文化についてこれから話すことの全てを、自分たちに対する批判と受け取らないほうがいい。
これは批判ではない。非難でもない。

わたしは、宇宙の高度に進化した存在は、決して怒りに任せて別の知覚ある存在を「殺し」たりしないと、といったのだ。第一に、彼らには怒りは無い。第二に、彼らは他の存在の了解なしに、その肉体的な経験に終止符を打ったりしない。第三に----さっきのあなたの質問に即して答えれば-----社会の外部、べつの種からであっても、彼らは決して「攻撃」されたと感じない。
「攻撃」されたと感じるのは、相手に何かを奪われると思うからだ。生命、愛するもの、自由、財産、所有物、つまり何かをとられると思うからだ。だが、高度に進化した存在は、相手が力ずくでもほしいと思うなら、与えてやる。そのために、肉体的な生命を失ってもかまわないと考える。なぜなら、高度に進化した存在は、もう一度全てを創造できることを知っているから。相手が遅れていてそれを知らないのなら、ごく自然に欲しいものを与えるだろう。
だから、高度に進化した存在は殉教者でも無いし、だれかの「横暴」の犠牲者でもない。
高度に進化した存在は、もう一度全てを創造する必要も無いことをはっきり心得ている。そんなものが無くても幸福になれること、生存できることを知っている。自分以外に何も必要としないことを知っている。「自分自身」、本当の自分は、物質的なことがらとは何の関係も無いことを知っているのだ。
最後に、高度に進化した存在は、自分と攻撃側が「ひとつ」であることを知っている。そこで、攻撃側を、自分の傷ついた部分と考える。その状況での仕事は、すべての傷を癒して、「全てであるひとつ」がほんとうの自分を知るようにすることだ。


神との対話 3
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【】
この時代、地球上に起こり得ている様々な出来事は、天変地異も含めてすべて、生かされし私達へのメッセージだと感じています。そして又それは、各自の内なる声はどうなっているのかと、問われているようにも感じます。
それは個であって全であり、全であって個であり、
無関心が冷静ではなく、戦争という意味を一つとっても、歴史の中の現実が創り上げてきたものであり、傷跡は課題として残されています。
しかし尚も続いていることが現実です。
考えさせられます。
人として、いかに己をコントロールして生きるのかに、立ち戻り、自らの目的の方向と行動に、目を据えれば
自身の確認となります。
本当の目的は何であるのか?
その目的による行動を、今一度追求の時だという事を、
感じ受けました。
誠にありがとうございました。
【Re: タイトルなし】
ひまわりの種 様

ご訪問とコメントに感謝申し上げます。

余りに忘備録の引用文が長かったのと、面白い内容ではなかったので、
読んでいただける方はいらっしゃらないかな、と思っていました。
いま、愛ならばどうするか??
そもそも自分自身が愛であることを、どれだけ体得しているのか??
自分自身が、まだまだ中途半端であることを思い知らされました。
同時に、全人類が 平安と愛と善意に満ちた存在を取り戻すまでは、
自分自身を見つめなおし本当に納得することと同時に、
微力ながらも、ラッパを吹き鳴らす必要があると痛感しています。

長い文章をお読みいただき、その上 とても素晴しいご感想をいただき、
誠にありがとうございました。
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きいたかぽん

Author:きいたかぽん
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某国立大電気工学科卒
制御装置、コンピュータ関連装置の開発経験を経て
独立

自身の ”がん”の手術直前に ”がん”が消えていた体験から
死と直面し、
死ぬときに残るのは”愛”だけと気づき、新しい生き方を探すようになる。

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